マチュピチュ村と日本人の意外な繋がり
みなさんこんにちは。
雑学ブログ管理人のたまです。
このブログでは、知っていると話の小ネタになるような雑学をパパっと紹介して行きますので、楽しんで頂けると嬉しいです!
今回は世界遺産「マチュピチュ」と、その入り口にある「マチュピチュ村」についてです。
そこには私たち日本人と意外な繋がりがありました。
マチュピチュとは
マチュピチュとは1911年にアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムによって発見された世界遺産で、ペルーのアンデス山脈、標高約2450mの尾根に位置する古代インカ帝国の遺跡です。
山裾からでも遺跡の存在が確認できないことから「空中都市」と呼ばれる事もあります。
マチュピチュ遺跡を作ったのは、インカ第9代皇帝のパチャクティ・インカ・ユパンキだと言われており、クスコ周辺に暮らす小さな集団だったインカを大帝国へと押し上げた人物と言われています。
しかし、その後インカ帝国は1533年にスペイン人の征服により滅亡してしまい、文字を持たない文明だったため、
マチュピチュが何故作られたのかなど、いまだにわかっていないことが多い遺跡です。
マチュピチュ村
そんなマチュピチュの入り口には「マチュピチュ村」という人口6000人ほどの小さな村があります。
この村は標高約 2000m で、標高約 3400m のクスコより 1400m も低いため、クスコ宿泊より「高山病」にかかりずらく、近年はクスコ到着日にこのマチュピチュ村まで直行する観光客も多いのだとか。
そんなマチュピチュ村は今ではすっかりマチュピチュの観光拠点で、メイン通りである「パチャクティ通り」にはレストランやバー、お土産店などがひしめいています。
しかしこのマチュピチュ村、なんと私たち日本人とはとても深い繋がりがあるのでした。
初代村長は日本人!?
なんとそのマチュピチュ村を作ったのは、日本人の「野内与吉(のうちよきち)」という人物だと言われています。
彼は福島県の裕福な家庭に生まれるも、海外で成功したいという夢を抱き、22歳の1917年に契約移民としてペルーへ渡たりました。
ペルーに渡った後は農園で働くものの、仕事内容がハードすぎて退職。その後はペルー国内を放浪し、最終的にマチュピチュ集落に定住。
密林を開拓して道路や畑を整備し、集落や水路などを作ったり、ダムを造り、水力発電を行えるようにして、村に電気を通すと、40歳の1935年にはペルーで「ホテル・ノウチ」を開業。
ホテル内には郵便局・交番・裁判所も作られたそうです。
そして4年後の1939年にはマチュピチュ地区の行政最高責任者に就任し、マチュピチュの村昇格直後は、1948年から2年間村長を務めました。
そう、マチュピチュ村の初代村長が日本人というのは本当の話でした。
その後、太平洋戦争勃発し、ペルー各地で日本人が連行される中、野内は村人たちに守られるなど、村人たちとの信頼関係は厚く、1969年、人生の半分以上を過ごしたペルーの地で永眠。享年74歳でした。
最後に
近年では海外に夢を見て移住する若い人も増えてきた印象ですが、この頃から夢を追いかけて海外移住する人はいたんですね!
観光客からはよく、どこか日本に似ているといった声も聞くマチュピチュ村ですが、それには彼がペルーに移住して現地の人たちと熱い信頼関係を築いてきた歴史の影響もあるのかも知れませんね。
今回の雑学は以上です。
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それではまた次の雑学でお会いしましょう。
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